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【第1回】相馬野馬追の始まり

相馬野馬追は今から昔々、平安時代中期(1000年以上も前)にはじまったとされています。
平将門(子供の頃は相馬小次郎と呼ばれていました)が昔の地名では下総国葛飾郡小金ヶ原
(現在の千葉県松戸・流山付近)の野原で野馬を捕まえて、神社に奉納したことが由来とされています。

皆様は神社に行きお願い事などをする際に絵馬に思いを書き込んだりしませんか?
昔は馬というのは大変貴重(今でもそうですが)なもので、神社にお願い事をするときに一番貴重な馬を御神馬として神前に奉納していました。
今の時代では馬を奉納するのは難しいので絵馬というものが生まれました。
相馬では今でも故郷の安寧とお住まいの皆様の平和を願い、毎年野馬追の際に駿馬を神社に奉納しています。
(この野馬懸(のまかけ)と言われる行事は相馬野馬追の中で一番大事な事です。今度細かなことはお伝えします)

昔の本によると「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備えの次第、駆引の自由、馬上の達者、機変自在の動きを試む」と書かれています。

野馬追の始まりは自分達の故郷をお守りするための軍事訓練が始まりです。

時は流れ1323年(700年程前)、第6代当主・相馬重胤が、陸奥国行方郡太田村(現在の福島県南相馬市原町区中太田)に移住しました。
現在の相馬太田神社がある場所に住み出しますが、数年で小高城(南相馬市小高区の相馬小高神社)に移り住みました。

昔からの野馬追のように、相馬でも太田村近くの原野に馬を放ち、以降断続的に馬を放ち続けてとされています。
このころの野馬追は資料が乏しく詳細は不明なのですが、またまた時は流れ1600年、当時居城としていた牛越城(南相馬市原町区)で野馬懸(のまかけ)
をしているときに、関ヶ原合戦の報告を受けたとされ、下向後も野馬追を続けてきたと考えられます。
江戸時代になると、住居を中村城(現在の相馬市相馬中村神社)に移し、以降明治時代になるまで相馬氏の居城となりました。この頃から、現在行われている相馬野馬追の面影が見えてきます。
第19代当主・相馬忠胤は、原野に、牧を整備し、そこで野馬追を行うことにしました。
現在の雲雀ヶ原(ひばりがはら)祭場地もその一部です。
明治時代になると武家社会に終焉を迎え、野馬追原に放牧されていた馬が捕獲されるなど相馬家の年中行事であった野馬追もできなくなりましたが、
相馬家の氏神である妙見を祀る相馬三社(相馬太田・小高・中村神社)の祭礼として、幾多の困難を乗り越えながらどんなことがあろうと継続し先人達の教えを今も受け継いでいます。

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