前軍師・中島三喜が背負った「復興」という名の甲冑:11年の軌跡と勇退の美学

東日本大震災と原発事故により、相馬野馬追は存続の危機に瀕した。多くの騎馬武者が家や馬、甲冑を失い、地域コミュニティの精神的支柱が揺らいだこの困難な時代に、最高指揮官「軍師」として立ち上がったのが中島三喜氏である。2012年から2022年までの11年間、異例の長期政権を担い、「復興は相馬野馬追から」を掲げた彼の軌跡は、まさに地域の再生の歴史そのものである。

震災後の混乱期をいかに乗り越え、野馬追の「品格」をいかにして取り戻したのか。そして、後継者に道を譲った「勇退の美学」とは。前軍師・中島三喜氏の言葉から、その重責と武士の精神性を探る。

1. 震災翌年の就任:空白からの再生

Q: 2012年、震災の翌年に軍師に就任されました。当時の相馬野馬追を取り巻く状況はどのようなものでしたか。

中島三喜氏(以下、中島): 2011年は、震災と原発事故の影響で通常開催が不可能となり、祭りは大きな空白に直面しました。私自身も新潟、山形、栃木へと避難生活を転々とする中で、盗難を恐れて甲冑を車に積んで移動していました。野馬追が私にとって、どれほどアイデンティティの核心であったかを物語っていると思います。

Q: そのような状況で、軍師として掲げたテーマは何でしたか。

中島: 迷いはありませんでした。「復興は相馬野馬追から」です。全国からの支援に対する感謝を示すこと、そして何よりも、疲弊しきった地元住民を元気づけるための行事としての再生が急務でした。口上や挨拶には、必ず復興への強い思いを込めました。野馬追は単なる神事ではなく、地域コミュニティの精神的支柱としての役割を果たす必要があったのです。

2. 規律の鬼として:野馬追の品格を取り戻す

Q: 中島軍師の功績として、野馬追の「品格」を回復された点が挙げられます。具体的にどのような改革をされたのでしょうか。

中島: 私が若い頃は、参加者の口調が「○○あんにゃ(兄さん)、行くべー」といった日常会話の延長で、武士の祭りとしての厳粛さが失われかけていました。私はこれを憂い、NHKの時代劇や歴史番組を通じて「武士言葉」や所作を独学で研究し、勉強会を通じて参加者に浸透させました。

また、視覚的な「美学」の維持にも腐心しました。軍師就任後は、行列における野球帽の着用を禁じ、騎馬武者にふさわしい服装を徹底させました。「全国からお客さんが見に来ているのに、なんだあの行事はと言われたくない」という思いが強かったのです。観光資源としての側面と、武士としての誇りの両立を目指しました。

Q: 行列の間隔や馬の取り扱いについても厳しく指導されたと伺っています。

中島: ええ。「みっともないことはするな」と指導し続けた11年間でした。特に、行列の乱れは、士気の低下と品格の喪失に直結します。馬の取り扱いに至るまで、厳格な規律を求めました。この11年間で築いた「整然とした野馬追」の基礎が、現在の伝統を支えていると自負しています。

3. 「伝統の創造」としての武士言葉の復活

Q: 「武士言葉」の復活は、伝統を「創造」したとも言える行為です。その背景にはどのような思いがありましたか。

中島: 伝統は、ただ受け継ぐだけでは廃れてしまいます。時代に合わせて、その「本質」を再構築し、維持・修復していく努力が必要です。かつて廃れかけていた野馬追独特の口上や言い回しを、時代劇を参考に研究し、講習会を開いてまで復活させたのは、野馬追が持つ厳粛な雰囲気を取り戻すためでした。現代の野馬追が持つ格式は、私を含めた先達の「演出努力の賜物」であると言えるでしょう。

4. 勇退の美学:引き際が肝心

Q: 2022年をもって軍師を勇退されました。11年という長期政権の終わりに、どのような思いがありましたか。

中島: 74歳を迎え、体力の衰えを感じていました。何よりも、「引き際が肝心」だと考えていました。後継者である門馬光清氏への道筋がつき、新しい時代への準備が整った段階で、潔く身を引くことが、武士としての責任だと感じたのです。

Q: 家族にすら告げず、最後の野馬追を完遂されたと伺っています。

中島: ええ。公人としての徹底した責任感です。最後まで軍師としての務めを全うし、祭りの成功を見届けることが、私の使命でした。私の11年間が、相馬野馬追の「レジリエンス(強靭な回復力)」の一助となれたのであれば、これ以上の喜びはありません。

おすすめの授業